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美術作品

村山知義 Murayama Tomoyoshi

村山知義

明治34年<1901>-昭和52年<1977> 東京都出身
大正-昭和期に活躍した画家、童画家、劇作家、演出家、舞台芸術家。第一高等学校在学中、太平洋画会で木炭デッサンを学ぶ一方で、母が勤める婦人之友社『子供之友』に挿絵を描き始めました。1921年、東京帝国大学文学部哲学科に入学するも、同年の12月には退学し、原始キリスト教を学ぶためベルリンへ留学。留学中に出会ったワシリー・カンディンスキー、マルク・シャガール、アレクサンダー・アーキペンコらの前衛的な芸術に魅せられて画家に転向。特定の画家に師事することなく独学し、「コンストラクチオン」や「あるユダヤ人の少女」、「美しき乙女に捧ぐ」などを制作しました。1923年に帰国すると、大正期新興美術運動に参画し、美術雑誌上での日本の前衛美術批判や、自己の主張する意識的構成主義の論考を発表するなど精力的な活動を展開。同年柳瀬正夢や尾形亀之助、門脇晋郎、大浦周蔵らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、翌年には雑誌『マヴォ』も創刊しました(1925年8月の7号で終刊)。
1924年に築地小劇場で公演された「朝から夜中まで」の舞台装置を担当し、その構成派的作風が演劇界でも注目されました。
同年に複数の前衛美術集団が大同団結して結成された三科造形美術協会が、翌年には瓦解してしまったのを受け、次第に芸術運動から離れ、プロレタリア演劇運動へと移行。大正期においては前衛的な美術運動の推進者であり、画家でしたが、その後は劇作家、演出家として主に活動し、戦後には東京芸術座を主宰しています。また、画家としての原点ともいうべき童画制作は生涯続き、前衛美術とは趣を異にする、子どもにも分かりやすいシンプルでモダンな画風で『コドモノクニ』や『コドモアサヒ』、『キンダーブック』などでも活躍しました。児童劇作家の村山亜土は息子。

1922年 童話画集「ロビン・フッド」(婦人之友社)出版。渡独
1923年 帰国。前衛美術集団マヴォ(MAVO)結成
1924年 雑誌「マヴォ」創刊。「朝から夜中まで」の舞台装置制作
1925年 今東光らと「文党」創刊。池谷信三郎らと心座結成。日本プロレタリア文芸連盟 美術部員
1927年 岡本帰一、武井武雄、初山滋らと日本童画家協会を結成
1930年 日本共産党入党
1934年 新協劇団を結成
1940年 逮捕。新協解体
1945年 7月満州へ行き、12月帰国。新協劇団を再建
1959年 東京芸術座を結成(主宰)
1965年 日本民主主義文学同盟の結成に参加(副議長)。

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